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このサイトでは高杉晋作が生きた時代を中心に




幕末から明治維新以後までの時代についての資料をまとめていきます。





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→高杉晋作





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高杉晋作年表 anchor.png Edit

1839年天保10年8月20日長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に
長州藩士 高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男としてうまれる。
1846年弘化3年8歳 - この頃、萩城下平安古の吉松淳蔵の家塾に通い始める。
1853年嘉永6年15歳 - この頃、明倫館商学部より大学部に進む。
1857年安政4年2月14日19歳 2/14 明倫館入舎生を命じられる
2月9日江戸に向かう吉田稔麿に送叙を与える。
家族に隠れて松下村塾に通い始める
1858年安政5年4月7日20歳 祖父又兵衛逝去
4月13日京都に上った久坂玄瑞の活躍を喜び、
自分の遊学が実現されるよう松陰に周旋を頼む
7月5日松陰、晋作を推薦する書状を周布政之助に送る。
7月18日文学修行のため12ヶ月の暇を許される。(東遊)
松陰、「送高杉暢夫叙」を晋作に与える。
安政の大獄はじまる
1959年安政6年10月27日吉田松陰斬刑にて没す
1860年万延1年1月23日22歳 - 井上平右衛門二女 雅子と結婚
3月20日明倫館舎長を命ぜられる
3月7日海軍蒸気科修業のため藩の軍艦「丙辰丸」で江戸に向かう
8月28日江戸より東北遊歴の途につく。自ら試撃行と称し、各地の学者に会う
1861年文久1年3月11日23歳 - 長州藩世子小姓役を命ぜられる
1862年文久2年1月3日24歳 - 幕府使節随行員として支那(中国)行きを命ぜられる
4月29日長崎を出帆して上海へ向かう
7月14日長崎へ帰る
12月12日久坂玄瑞、志道聞多らと品川御殿山英国公使館を焼き討ちする
1863年文久3年3月15日25歳 - 十年間の暇を請い許され、剃髪して東行と号す。
6月6日馬関、白石正一郎邸で奇兵隊を組織
10月1日百六十石を給せられ奥番頭役に任ぜられる
1864年元治1年1月28日26歳 - 来島又兵衛らの京都進発論の説諭に失敗して京都に走る。
3月27日脱藩の罪で萩の野山獄に投ぜられる
6月21日出獄、父、小忠太預けとなり謹慎
7月8日池田屋事件
8月馬関で英米仏蘭連合艦隊と攘夷戦争の講和談判にあたる
10月25日身の危険を感じて萩を脱出する
11月1日馬関から博多に向う。
谷梅之助と変名
11月10日野村望東尼の平尾山荘にかくまわれる
11月25日長州の状況をきき馬関に帰着
12月15日遊撃隊、力士隊の協力を得て長府功山寺で、
「俗論派」を討つため挙兵、藩会所を襲う
1865年慶応1年1月2日27歳 - 討奸檄を伝え、俗論党討滅の主意を宣言
2月2日内訌戦に勝利。
藩論は「武備恭順」に統一される。
3月26日洋行を志すが長崎で英国商人グラバーから
反対され、馬関開港に奔走する
4月長府藩士の加害を避けるため愛妾おうのを連れて
讃岐の侠客志士日柳燕石を頼る
1866年慶応2年2月27日28歳 - 伊藤俊輔と共に薩摩行きを
命ぜられるが長崎で中止。
オテント丸を独断で購入して帰る
6月7日大島口で幕軍と開戦
(四境戦争はじまる)
6月17日小倉戦争はじまる。作戦を指揮
7月30日馬関口海陸軍参謀を命ぜられる
8月1日小倉城炎上。このころから肺結核が進む
1867年慶応3年4月14日29歳 - 馬関新地の林算九郎宅で没す
4月16日吉田村清水山(下関市吉田町)に葬る
10月14日大政奉還
12月10日近江屋事件
株式会社金子商会
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